挑戦したくなるビジョンを描け——メンバーの視座を引き上げる言葉の力 ——仕事をする上で心に残っているアドバイスはありますか? グローバルな研究開発体制を推進していたときに、右腕として支えてくれたノルウェー人の研究者からもらった言葉はとても印象に残っています。 彼は20代で工科大学の教授になったほどの天才的な研究者で、ビジネスの知見にも長けていました。彼とは日常的に、「グローバルで活躍できるのはどんな人材か」「これからの時代のリーダーに求められる素養は何か」といったことをよく議論していました。 当時、私が率いていた研究開発組織は前例のないものでした。世界5カ国・8拠点にメンバーが所属し、そのうち95%以上が外国籍。しかも研究領域も実に幅広く、ユビキタスやデジタルサイネージのようなデバイス分野から、データマイニングや自然言語処理といったデータ活用領域、さらにはロボティクスやドローンといったハードウェア領域までをカバーしていました。 これほど多様な領域を束ねるのは容易ではなく、「どうすれば研究を実際のビジネスインパクトにつなげられるのか」という問いに対する答えを探しながら、試行錯誤を続けていました。 そんなある日、悩んでいた私に彼がかけてくれた言葉は、私のコミュニケーションを大きく変えてしまうほどのインパクトがあるものでした。 「もしも森さんが巨大な船をつくりたいのであれば、人々を集めて木材を切らせて運ばせて、どう組み立てるか——といった、『タスクを割り振るような作業』から入ってはいけない。そうではなく、『果てしなく続いていく広大な海への憧れ』を語るべきです」 これはサン=テグジュペリの言葉を引用したものでした。この言葉の意味するところは、「リーダーの役割とは単にタスクを指示することではなく、『長期的なビジョンを示すこと』にある。そしてそのビジョンは、メンバー一人ひとりが『挑戦したい』と心から思える、希望に満ちたものでなければならない」ということだったのです。 このアドバイスを受けてから、私のコミュニケーションのあり方が変わりました。常に「メンバーの視座をどう引き上げるか」を意識するようになったのです。 たとえばミーティングでは、「今、私たちが取り組んでいるこの仕事は、社会にどんな価値をもたらすのか」「この取り組みで世の中をどう変えていけるのか」といった話を意識的に語り続けるようになりました。 ビジョンを共有することで、人は自分の役割の意味を理解し、挑戦するエネルギーが湧いてくる。そうした考え方が、今の博報堂DYグループで掲げている「人間中心のAI」という理念にもつながっています。あの時の言葉は、私のリーダーシップの礎になったと言っても過言ではありません。 企業と生活者の未来をデザインする——「人間中心のAI」に込めた情熱 ——CAIOとして、どのようなところにやりがいを感じますか? CAIOの役割や領域は意外に広くて、「AIをいかに自社のシステムやサービス、プロダクトに組み込むか」というところが「いかにAIを使って内部のシステムの生産性を上げていくか」「業務プロセスを改善していくか」「社員一人ひとりのスキルを高めていくか」といったところにもかかわってきます。 さらには、そうした内部の話だけではなくて、「新しい視点の新しい取り組み」をどう始めていくか、つまり「新規事業をどうつくっていくか」といったことも考えなければなりません。 こうした取り組みを成功に導くためには、AIスタートアップやビッグテック企業といかに戦略的にアライアンスを組むかが重要になります。彼らと連携しながら、新しい技術やサービスを共創し、そこから新たなビジネスを立ち上げていくことが求められるのです。 そのため、CAIOというのは内部のことも分かっている必要がありますし、業界動向や市場の変化といったことを踏まえたビジネスの知見も必要です。もちろんAIというのはとても急速に変化しているので、時代の先を見据えたリーダーシップも重要です。そういう意味ではとても魅力的なものがあると思っています。 そうした中で、最も重要なのはビジョンだと思っています。 さらに視野を広げて考えると、「AIは社会をどう変えていくのか」「AIが私たちのビジネスや存在そのものをどう変えるのか」「その変化の中で私たちはどうあるべきか」といった未来のシナリオを明確に描き、示していくことが何より大切になるからです。それがあるからこそ、「短中期的に何をやるべきか」が分かってくると思います。 今後もものすごいスピードで進化し続けていくAIの変化をしっかり追いかけながらも、自社ならではの強みを見極め、それを土台に「本当に価値を生み出すAI戦略」を見つけ出し、実行していくことが重要です。そうした取り組みこそが、AIによって企業を変革していくジャーニーなのだと感じています。 そして、その道のりにCAIOとして関わり、貢献できることに、私は大きなやりがいを感じています。 ビジョンを共有できる人が、チームを動かす——現代リーダーの条件 ——CAIOに必要な資質とは何でしょうか? ビジョンを描き、それを日々の仕事と結びつけてメンバーと共有する力が、リーダーにとって最も重要だと思います。現代的な言葉でいえば、パーパス(存在意義)やアスピレーション(志)を明確に示し、「自分たちは何のために、どこを目指して働いているのか」を常に語り続けることです。 加えて、いまの時代は社会も価値観も大きく変化しており、リーダーシップのスタイル自体も多様化してきています。かつてリーダーとは、先頭に立って方向を示す「導く人」でした。しかし、デジタル技術が広く普及した現代では、誰もが発信者となり、膨大なアウトプットを生み出せるようになりました。 その結果、今、企業に問われているのは「量」ではなくアウトプットの質をどう高めるか、「質」の高いアウトプットをどうやって見つけ出していくかです。だからこそ多くの企業が、ヒエラルキー型の組織から、多様な人材がフラットに連携し、分散しながらも価値を生み出すチームづくりへと舵を切りつつあるのです。 こうした環境の中で、リーダーに求められる役割も変わってきています。先頭に立つだけでなく、コーチ、サーバント、カタリストのように、メンバーと伴走し、支え、能力を引き出すタイプのリーダーシップが重要になっています。 それはたとえば、メンバーの隣に寄り添いながら信頼関係を築く「横につくリーダーシップ」や、環境や仕組みを整え、背中からチームを支える「後ろにいるリーダーシップ」などです。 大切なのは、自分自身の個性やチームの状況に合わせて、どのリーダーシップスタイルが最も効果的かを見極めることです。そして最も重要なのは、「ビジョンを日々共有し続けること」「チームが主体的に、創造的に動き続けるためにどう働きかけるか」という点に尽きると思っています。 「なぜ自分がやるのか」を問うことから、リーダーシップは始まる ——これからCAIOを目指す人材に求められるスキルは何でしょうか? アドバイスとしてお伝えしたいのは、「自分にとって大切な価値観をどう見つけていくか」ということです。 これまでお話ししてきたように、目指すべきビジョンやパーパスは、決して一朝一夕で見つかるものではありません。「どうやって自分のビジョンやパーパスを見つけようと努力し続けるか」——その過程こそが大切だと思っています。 AIやデジタルツールが進化した今、「情報があるから簡単に見つけられるのでは」と思うかもしれません。しかし、そうしたツールが示すのはあくまで過去のデータに基づいた分析結果です。未来へ向かう羅針盤を描くためには、自分の内側にある価値観を見つめることが欠かせません。 ビジョンやパーパスの出発点は、常に自分自身の内側にあります。「何をやるのか」「誰のためにやるのか」「なぜ自分がやるのか」「なぜ今やるのか」——こうした根源的な問いを自分に投げかけ、心の声に耳を傾ける。その積み重ねが、自分の価値観を形づくっていくのだと思います。 また、リーダーは一人で働く存在ではありません。 共に働くメンバー一人ひとりの内なる価値観や声に耳を傾け、それに光を当てることも大切です。そのためには、日常の業務だけでなく、価値観を語り合い、共有する場が必要です。 例えば、困難なプロジェクトを共に乗り越える中で生まれる連帯感や、懇親会の延長で夜通し語り合うような経験も、決して無駄ではありません。そうした深い対話の中でこそ、相手の価値観に触れ、自分の価値観と結びつけていくことができるのだと思います。 こうしたプロセスは、一見、遠回りに思えるかもしれません。しかし、内省と対話を積み重ねる以外に、本当に掲げたくなるビジョンやパーパスは見つかりません。だからこそ、「この道しかない」と信じて歩み続けることが大切だと思っています。 博報堂DYグループを「AIドリブンな組織」へ——「人の創造性」を高める新たなステージへの挑戦 ——今後の展望と取り組みをお教えください。 足元の取り組みと並行して、中長期的なスパンで見据えているテーマがあります。 中長期的な視点で見ると、今後5年ほどのスパンの中で、AIはAGI(汎用人工知能)に向かう道筋をたどっていくと考えています。その重要なマイルストーンの一つが「世界モデル」と呼ばれる技術です。この世界モデルを自社で開発し、あるいは積極的に活用していくことには、ぜひ挑戦していきたいと思っています。 現在の生成AIや大規模言語モデル(LLM)は、「これができる」「ここまで自動化できる」といったできることの側面が強く打ち出されています。一方で、実は「子どもでも自然にできるのに、AIにはうまくできない」という課題も、まだ数多く残されたままです。人間から見るとごく当たり前に感じられる推論や状況理解が、AIにとっては依然として難しい。この「技術的な限界」が、非常にわかりやすい形で横たわっているのが現状です。 AAAI(The Association for the Advancement of Artificial Intelligence)というトップレベルの学会のサーベイでも、研究者の約76%が「現在のAIは、このままではAGIにはならない」と回答しています。つまり、「越えなければならない壁はすでに見えているが、その乗り越え方についてはまだ誰も明確な答えを持っていない」という認識が、研究者のあいだでは共有されているのです。 世の中的には「AGIの時代はすぐそこまで来ている」というムードもありますが、研究の現場ではむしろ「いま見えている技術の延長線だけでは到達できない」という冷静な見方も根強くあります。その壁に真正面から向き合い、新しい地平を切り開こうとするアプローチのひとつが、世界モデルです。 世界モデルは、そうした技術的な限界を突破する可能性を秘めているだけでなく、私たちの業界にとって非常に重要なポイント——すなわち、クリエイターやデザイナーが持つ暗黙知や感性をどう取り込むか、というテーマにも直結してきます。トップブランドの世界観やストーリーを深く理解し、その文脈の中で本当に役に立つAIをつくれるようになれば、AIは単なる効率化のツールではなく、「ブランド体験を共につくるパートナー」へと進化していきます。…