鹿島建設が挑んだ世界初の自動化施工システム「A⁴CSEL」開発秘話

公共工事投資拡大と人手不足の間で苦悩する建設業界 東日本大震災を契機に、強くてしなやかな国づくりや地域づくりを進める「国土強靭化法」が2013年12月に成立。道路、鉄道、港湾、航空などの整備や防災、減災への投資が増加している。国土交通省が発表した建設投資の動向では、政府の名目投資は2013年度が18.4兆円であるのに対して2024年度は26.2兆円と8兆円近く増加する見通しとなっている。 ところが需要が増える反面、建設業界の就業人口は1997年の685万人をピークに、2024年は477万人まで減少。建設技能者(2024年は303万人)は高齢技能者を中心に2030年までに100万人規模の大量離職が発生すると見られている。 それだけではない。有効求職者もまた「3K(きつい、汚い、危険)」といった負のイメージから減少の一途をたどり、人材確保にも苦労しているのが現状だ。 このような中で生産プロセス全体の見直しを行い、「現場の工場化」を進めているのが業界最大手の鹿島建設だ。 「A4CSEL(クワッドアクセル)」と呼ばれるこの取り組みは、建設機械の自動運転を核とした世界初の自動化施工システム。建設業界の「人手不足」「低い生産性」「高い労働災害率」の課題を解決するために、少人数で多台数の建設機械を自動制御する仕組みだ。ブルドーザ、ダンプトラック、振動ローラなどを自動化し、東京本社や神奈川県の管制室から、現場を少人数で一括制御できる。熟練オペレーターの操作データを学習し、最適な作業手順を自動生成して、技能者の「勘と経験」に依存せず、再現性のある施工を実現するという。 「建設機械を自動化できても作業が自動化できなければ、現場の生産性向上は実現しないわけですが、そもそも自動化機械が人より効率良く作業ができるはずがないという時代でした」と、鹿島建設技術研究所のプリンシパル・リサーチャー、三浦悟氏は当時を振り返って次のように語る。 「ゼネコン各社は1990年代の初め、こぞって建設機械の自動化やロボット化を進めていました。これが日本の建設自動化の原点です。当時の建設ロボットは、生産効率を上げるためという目的とともに、危険作業や苦渋作業を人にかわって行う特殊技術という位置づけでした。しかし開発費がかかる反面、効率化に寄与するようなものがでてこなかったことから、この分野の研究開発は低調になりました。それでも、自然災害からの復興工事などで安全確保のために建設機械を遠隔操縦で動作させる『無人化施工システム』の検討は継続され、建設分野のロボット技術を代表する技術として発展していました」 三浦氏は、1994年から始まった雲仙普賢岳復興工事で遠隔操縦用の建設機械に、当時の最先端技術だった高精度リアルタイムGPSやジャイロ、通信機器などを搭載したシステムを開発し、参画した。建設機械を遠隔操縦室からリモコンで動かして施工を行った。ただ、リモコンを使った操縦というのは、非常に作業効率が悪い。 「雲仙普賢岳の無人化施工に携わっていた時に、遠隔操縦席に置かれたカメラからの映像をずっと見ながらの運転は、熟練したオペレーターでも作業効率が大きく落ちます。機械の位置や動作手順などを変えていろいろ試しましたが、遠隔操縦で生産性を確保することの難しさを痛感しました。ただ、建設ロボットの開発を担当していた経験から、状況に応じた動作を人が指示して、それを建設機械が自動で行うことができれば、とも感じていました。」(三浦氏) しかし、建設機械の自動化が建設生産性の向上に直結するとはなかなか考えられない。そもそも遠隔操縦用建設機械はあったが、自動化建設機械は市販されていない。建設機械メーカーも二の足を踏んでいた。法整備ができていないため、だれが責任を取るのか、明確ではない。大きな事故でも起きてしまえば製造物責任を問われかねないからだ。 鹿島は建設会社だから建設機械を作った経験はない。ただ、無人化施工システムで使っている遠隔操縦用建設機械はリモコン、すなわち電気信号で動いている。これを応用しようと検討を始めたそんなさ中にIT企業のグーグルが自動運転の開発に乗り出してきた。グーグルもまた自動車メーカーではなかったが、トヨタのプリウスを改造し、自動運転できるシステムを開発した。 「彼らと同じことを私たちでもできるのではないかと考え、遠隔操縦の技術をもとに建設機械の改造、センサの設置、そして独自で自動運転のソフト開発を始めました」(三浦氏) 日本の産業用ロボット技術は世界最高峰だ。1位ABB Ltd(スイス)を除けば、2位のファナック、3位の安川電機、4位のセイコーエプソン、5位の川崎重工業とトップ5に4社が名を連ねている。ただ、初期の産業用ロボットは大きな課題があった。高いコストに見合った能力がない。しかし、製造業は使い続け、改良し続けたことで世界最高峰になった。建設業でもできるはず。このとき三浦氏は日本の底力に一片の望みをかけたという。 三浦氏は2009年、技術研究所のメンバー4人と「A4CSEL(クワッドアクセル)」のプロジェクトを立ち上げた。「A4CSEL」という名前は、自律自動化の施工システムという意味に加えて、まだ誰も成功していない、フィギュアスケートの4回転半ジャンプという意味が込められている。この開発を始める時、「今は誰も実現できていないが、きっとできるようになる。最初にやるのは我々だ!」という思いがあった。 最初に取り組んだ建設ロボットは振動ローラ ではどうすれば自動で施工の効率化を図ることができるのか。これまでの建設現場ではさまざまな建設機械がそれぞれのオペレーターの判断と技量で連携しながら工事を進めていた。複雑な動きを自動機械が臨機応変的に行うのは極めて難しいからだ。しかし、作業時の動作を分解して、標準作業として、それを組合せで再現できないか。決められた作業を繰り返し正確に行うことは、自動化建設機械が得意とするところだから、多くの標準作業を自動化して、これを効率よく組み合わせていくことで、工事全体の生産性を上げることができるのではないか。 そんな発想からスタートしたプロジェクトだったが、最初のころは疑問を呈する声もあったという。 「90年代にゼネコン各社が失敗した経験もありますし、建設機械を自動化して自動運転システムを作ることは、ゼネコンの仕事なのか、という声もありました。そのような中で当時の田代(民治)副社長、高田(悦久)専務などの経営陣が『これはやるべきだ』と後押ししてくれたのです。それがあったからこそやってこられたんだと思います」(三浦氏) そんな思いから、2010年、最初に自動化に取り組んだのが振動ローラだった。 少ない予算で「できそうな予感」をいだくことができるコトから始めようということで、振動ローラの自動運転を取り上げた。 「予算も少ないですから、まずは生産性向上の可能性を感じられる自動運転を早期に示すことが重要だと考えて、動作が単純な振動ローラを選定しました。これが成功したら、その実績を見てもらった上で、今度はブルドーザやダンプトラックに手を付けようと思っていました」(三浦氏) 発注者や工事現場の協力も取り付けた。しかし当時はまだ、法整備がされていない。実験は出来ても、実現場に適用するには高いハードルがあった。 「今まで人が運転しない建設機械はありませんでしたから、安全管理面でのルールがありませんでした。雲仙普賢岳での建設機械の遠隔操縦は最終的には人が操縦しますから、基本的に搭乗運転時と同じ規定があります。しかしコンピュータが運転制御する自動建設機械では、誰が責任を持つのかが決められていなかったわけです。鹿島が改造して、鹿島が作った運転プログラムで動かすのだからメーカーに責任は負わせられません。結局、鹿島がすべて責任をとるということで進めました。その中でもっとも重要なのは、人に対してどう安全を確保するかです。厚生労働省に直接伺って、具体的に相談させていただきました。例えば、私たちは振動ローラの速度から考えて走行中に3m先の30㎝の凸部ものを障害物として検出して停止すれば接触が防げると考えていたのですが、人間が地面に寝るとだいたい高さが20㎝程度になるので、それを検知して停止する必要があるのではないかと指摘されました。そこまで考えていなかった反省とともに、ちょっとした凹凸にも反応してしまうし、感度が高すぎると粉塵に反応して作業が停止してしまうので、調整に苦労しました。ただ、A4CSELから決して労働災害を起こさないための準備をするという思いは強くなりました」(三浦氏) しかし、運転技術は鹿島にはない。作業はすべて協力会社のオペレーターで、最初に行ったのがメンバーに運転資格を取らせることだった。実は、それ以降、このプロジェクトにかかわるメンバーは、三浦氏以外の全員、資格を取っている。運転できない者は上手な制御はできないからだ。 自動化の取り組みで最初に注目したのが、建設機械を扱う熟練オペレーターの技術だった。同じ建設機械でも扱う人によって生産効率は大きく異なる。だからいかに腕の良い熟練オペレーターを現場に集めるかが、工事をうまく進めるためのひとつのポイントにもなっていた。 「振動ローラの運転は単純で簡単そうに見えますが、路盤材の違いで運転方法を変える必要があります。熟練オペレーターのように路盤状況に応じた動きを自動でできれば次につながると考えました」(三浦氏) 2009年8月、岩手県奥州市にある胆沢ダム(日本最大級の中央コア型ロックフィルダム)で操作データの収集を開始。コア材(構造物の中核部分)の転圧時における振動ローラの熟練オペレーターの操作データを集めた。2010年には鳥取県鳥取市にある多目的ロックフィルダム、殿ダムでロック材(ダムの外郭を構成する粗粒な岩石)の転圧時における振動ローラの熟練オペレーターの操作データを収集した。なぜダムを最初のターゲットにしたのか。 「ダムの現場の作業の多くは建設機械が行い、手作業でやっているところがほとんどないので、自動化施工システムの効果が発揮できると思いました。建設機械の組み合わせや、作業手順の違いで生産力が変わる。逆に言えば、そこを工夫すれば生産性が上がると考えたんです」(三浦氏) 2011年には神奈川県小田原市にある鹿島・機械技術センターで動作検証を行い、2012年には大阪砕石工業所で自動化振動ローラの実証実験を行った。ちなみに、2017年7月には、機械技術センターに隣接した2haのエリアに、業界で初めて自動化施工システムの開発、改良、実証を実規模で行うための鹿島西湘実験フィールドを開設した。 「GPSやジャイロ、レーザスキャナなどの計測機器や制御用PCをあと付けで自動化した振動ローラに熟練者の転圧作業時の操作を分析した運転方法を制御アルゴリズムに取り入れ、作業をさせた。その結果、路盤材の種類に関わらず、目標経路に対して±10㎝以下という高い精度が得られました」(三浦氏) ブルドーザの自動化ではコンピュータシミュレータを活用 土木には橋や鉄道、道路などさまざまな工種があるが、自動化プロジェクトの最初のターゲットとして目指していたのが、広範に数多くの大型建設機械を活用するダム工事だった。このダム工事の自動化にはフィルダムやRCDコンクリート(ダム用コンクリート)の層を高密度に締固める振動ローラだけでなく、掘削土の集積や整地作業に不可欠なブルドーザ、工期短縮に直結する掘削された大量の土砂や岩石を効率的に運ぶダンプトラックの自動化も急務だ。振動ローラは自分たちだけで開発を進めたが、スピード感を持って開発を進めるために国内最大の建設機械メーカーのコマツと共同研究開発を進めることになった。 「ブルドーザや重ダンプトラックの自動化でも我々の目標は、振動ローラの自動化同様に、熟練者並みの上手な自動運転を実現することでした。ただ振動ローラの場合は材料を加振転圧しながら走行するだけですが、ブルドーザは違う。土砂を押して、掻き起こし、運んで、整形するなど複数の作業を行います。そこで、振動ローラと同じように、建設機械による土木で必須の押土、整形作業を組み合わせて行う『まき出し作業』時の熟練者の操作データを集めることから始めました」(三浦氏) ブルトーザオペレータの操作データは、2012年に静岡県浜松市の第二東名牧平工事、2013年に静岡県伊豆市のコマツ・テクノセンターで収集された。 数人の熟練オペレーターの運転データで分かったことは、同じ量の材料を、同じ形に拡げて整形する作業でも人によって運転の方法が大きくことなっているということだった。つまりここから平均値を出しても最適な自動運転の方法を見つけ出すことができないということだ。 「熟練オペレーター3人に、幅10mの白線を引いてその範囲に荷下された24㎥の材料を高さ30センチでまき出すという作業をやってもらったんです。ブルドーザのブレード(排土板)の先端は運転席からは見えないんですが、全員が同じように10cm以内の幅できれいに仕上げるんです。でも、3人ともやり方が違う。どうすれば、彼らのような作業を自動で行うことができるのか。多くの実験を行って運転データを蓄積して最適な運転方法を見つけ出すことが考えられました。しかし数千回もの実験をやるのは膨大な時間とコストがかかってしまう。そこでコンピュータシミュレータを作って、作業をシミュレーションすることを考えたのです」(三浦氏) 作業条件を変えながら実作業を行い、操作データ、機体データ、その結果としての出来形データを計測、分析しなければならない。しかし作業条件は無数にあるから、膨大な時間がかかってしまう。そこで鹿島はブルドーザまき出し作業のコンピュータシュミレータを芝浦工業大学と共同で開発し、コンピュータ上で実験。2018年3月には鹿島・コマツの共同活動として理化学研究所の革新知能統合研究センターと「人工知能(AI)の利活用」の共同研究を行うなど、AIの本格導入が始まった。 「コンピュータ上で2万回ぐらいシミュレーションをやって、それを実験場で実際に試してみる。最近ではAIとシミュレーションを融合させて最適解を見つけ出すというやり方も進めています。最終的には熟練オペレーターの半分の時間でまき出し作業を行える運転方法を創り出すことができています」(三浦氏) 協力会社に広げていくことが今後の課題 コンピュータシミュレーションなどを活用して得られた結果は、実規模施工実験で確認、調整したのち、実現場で試行、実証を経て、適用するプロセスを取っている。現在は実規模の実験フィールドで実施しているが、それまでは発注者の協力のもと、現場での試行や実証実験を行い、その結果は実工事現場での公開実験という形で示していた。 2015年に福岡県那珂川市の五ケ山ダム堤体建設工事で自動振動ローラの現場導入とともに、初めて、自動ブルドーザを現場に導入した。 さらに2017年1月には大分県大分市の大分川ダム建設で振動ローラ、ブルドーザに続き、自動ダンプトラックの導入に成功、3機種の連携によって重機土工の基本作業の自動化が実現した。 そして2018年11月、福岡県朝倉市のロックフィルダム、小石原川ダム本体建設工事で、自動ダンプトラック3台、自動ブルドーザ2台、自動振動ローラ7台の自動建設機械を投入し、管制室から自動的に送られる作業指令データによって堤体の盛立作業が、多くの見学者が見守る中で実施された。 公開実験では前日までの調整では発生しないような問題が毎回発生して、いつもギリギリセーフ状態で乗り切っていたという。 小石原川ダムでの公開実験では、それまでの部分的な自動化施工から、3機種7台の自動化機械を同時に稼働させ、堤体上の作業をすべて自動運転で行うことを目指して準備していた。しかし、全ての機械の連携運転を一度もテストできないまま公開前日を迎えてしまった。ぶっつけ本番を覚悟したが、当日の雨のおかげで公開実験が2日間延期になり、この2日間で一気に仕上げたシステムは、本番では何の問題もなく、5時間にわたる連続作業を行い、コア材一層分(約1300㎥)の盛立を実施した。 2020年7月、秋田県雄勝郡東成瀬村の成瀬ダム(台形CSG型式)堤体打設工事に最大20台の自動化建設機械が導入され、ダムサイトに設置された管制室からの指令によって自動化施工が進められた。2024年までの5年間で約300万㎥、A4CSELによって施工されるという、世界でも類のない実績を上げている。 A4CSELの管制室には通常、ITパイロットと命名された管制員3~4人が、昼夜自動運転車両などを管制し、翌日の施工計画や運行スケジュールを作成。自動建設機械の稼働順序や作業エリアを設定。さまざまな工事を遠隔管制室が一括管制することで大幅に生産性や安全性向上を図ることができるのだという。もちろん施工の状況を監視し、必要に応じて人間のITパイロットが直接介入・調整することもあるが、基本的には管制から自動ですべての機械への指令が発信され、それに従って、それぞれの自動建設機械が自律的に作業を実行する。センサやGPSを用いて位置・姿勢・経路をリアルタイムで制御、作業精度を維持しながら作業時や移動時の最適経路を自動生成、複数機械の連携作業も自動化できるから、現場に人が入ることは原則必要ない。 2023年度工事ではA4CSELの管制室を西湘実験フィールドに設置し、そこから成瀬ダムの自動化建設機械を稼働する遠隔管制システムを開発し、導入した。合計14台の自動化建設機械を3人の管制員によって稼働させ,昼夜に亘って連続施工した。 「管制員を現地に派遣することなく,快適な作業環境で現地と同じ人員数で大量高速施工が実施できることが証明できました。それとともに,複数現場の自動機械を遠隔地から一括管制できるので、設備を共有化することでコストの面でも大規模工事だけでなく中小工事にも適用性があると考えています。」(三浦氏) 「自動化による省力化効果として、運転員の人員数の減少が挙げられますが、現場には建設機械の誘導員も必要です。その意味では機械台数以上の省力化と、資機材の転落や巻き込み事故などに会う危険もなくなります」(三浦氏) 今後の課題は施工会社にどこまでこのシステムを拡大していくかだ。 「現場で実際に工事をやるのは協力会社です。これまでは、例えば、自動化施工中に機械が故障した場合の処置など、現場で発生するアクシデントに対応するための処置や計画変更などの対応は、管制室に鹿島の社員が常駐して行ってきました。しかしこれまで培ってきたノウハウをマニュアル化して、協力会社に展開し、多くの会社に利用していただくことが今後の大きな課題ではないかと考えています」(三浦氏) ガートナージャパンのリサーチ&アドバイザリ部門ディスティングイッシュト…

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オルツ事件からスタートアップエコシステムが学ぶべき教訓

オルツで何が起きたのか?

オルツ社の不正の根幹にあったのは「循環取引」と呼ばれるスキームです。これは一見すると複雑ですが、本質は「自分で自分に発注して売上を作る」という単純な偽装工作に他なりません。その仕組みは、まずオルツ社が取引先である販売パートナーに対して「広告宣伝費」や「研究開発費」などの名目で資金を提供することから始まります。次に、その資金を受け取った取引先が、そのお金を使ってオルツ社の主力製品「AI GIJIROKU」のライセンスを「購入」します。最終的に、オルツ社はこの「購入」代金を正規の売上として計上することで、自社から出た資金が形を変えて売上として還流するサイクルを完成させていました。

第三者委員会の調査によれば、こうして「購入」されたライセンスの多くは実際には利用されておらず、発行すらされていないケースもありました。これは、取引に経済的実体が全く伴わない、完全な架空取引であったことを示しています。このスキームの巧妙な点は、自社の資金を環流させることで、架空売上にもかかわらず現金が動いているように見せかけ、不正の発覚を困難にした点にあります。

不正が発覚する以前から、同社の財務諸表には数多くの危険信号が現れていました。例えば、2024年12月期には売上高60億円に対し広告宣伝費が45.8億円と、売上の75%を超える異常な水準でした。これは、売上を作るために同額近いコストを外部に支払っていることを示唆しており、循環取引を疑うべき最大の兆候でした。また、「急成長」を謳いながら、営業活動によるキャッシュフローは一貫して大幅なマイナスであり、計上された利益が実際の現金に結びついていない典型的なサインでした。さらに、オルツ社が扱うのは物理的な在庫のないソフトウェア(SaaS)であるため、製造業のように在庫を数えるといった物理的な監査が難しく、ライセンスが本当に顧客に使われているかの検証が甘くなりがちでした。この業界特有の脆弱性が、不正の温床となったのです。

疑惑は、元従業員とみられる人物によるSNSでの内部告発や、アナリストによる財務分析によって水面下で広まっていました。しかし、決定的な転機となったのは、2025年4月の証券取引等監視委員会による強制調査でした。これにより、会社は第三者委員会の設置を余儀なくされ、同年7月28日、ついに不正の事実を公表するに至ります。創業社長は辞任し、株価は暴落、上場廃止の危機に瀕することとなったのです。

この事件は、単に経営者個人の資質の問題だけでは片付けられません。「5年で時価総額1兆円」という創業者CEOの壮大なビジョンは、投資家を魅了する一方で、社内に「いかなる手段を使っても成長を達成せよ」という強烈なプレッシャーを生み出しました。この「成長至上主義」の文化が、非現実的な目標達成のため、不正に手を染める動機となったことは想像に難くありません。

企業の健全性を保つべき監視役、いわば「ゲートキーパー」たちがその役割を果たせませんでした。まず経営陣と取締役会において、創業者CEOと不正に関与したとされるCFOに権力が集中し、取締役会は彼らの決定を追認するだけの「イエスマン」で固められていたと指摘されています。経営を監督すべき取締役会が、完全に形骸化していたのです。次に、監査法人である監査法人シドーは、数々の危険信号があったにもかかわらず不正を見抜けませんでした。専門家としての厳しい目が機能していたのか、重大な疑問が残ります。また、IPOの主幹事証券であった大和証券は、企業の価値やリスクを厳しく審査するデューデリジェンスの責任を負いますが、不正な数字に基づいた成長ストーリーをなぜ見抜けなかったのか、その審査プロセスの実効性が問われています。また、SBIインベストメントなど著名なベンチャーキャピタルも株主として名を連ねていましたが、彼らはある程度内部情報にアクセスできる立場にありながら、不正を抑止できませんでした。「AIブーム」の熱狂の中で、高いリターンが期待できるIPOを優先し、厳しいチェックを怠ったのではないかという批判もあり得るでしょう。

この事件から得られる教訓は?

この事件から得られる教訓を立場別に考えてみましょう。

スタートアップ創業者・経営者にとっての教訓

まず、幻想ではなく誠実な文化を築くことが求められます。成長目標よりも、倫理的な行動規範を優先する企業文化を創業初期から構築することが重要です。不正によって作られた成長は、砂上の楼閣に過ぎません。次に、早期から本物のガバナンスを導入することも不可欠と言えるでしょう。内部統制や社外取締役をコストや足かせと捉えず、経営陣に臆せず「ノー」と言える独立性と専門知識を持った社外取締役の存在が、暴走を防ぐための大きな助けとなります。そして、「本質的な指標」に集中することも大切です。見せかけの売上高ではなく、ユニットエコノミクス(顧客一人当たりの採算性)や営業キャッシュフローといった、事業の健全性を示す本質的な指標に目を向けることが望まれます。

ベンチャーキャピタル(VC)・投資家にとっての教訓

投資家には「信頼し、されど検証せよ」という姿勢が求められます。ピッチ資料の美しいストーリーを鵜呑みにせず、契約書や資金の流れを精査する徹底したデューデリジェンスが有効な手段となり得ます。特に、売上と費用が不自然に連動している取引は、慎重に検討すべき点です。また、規律あるパートナーであることも重要になります。取締役会での役割は単なる応援団ではなく、財務の健全性について建設的な質問を投げかけ、規律を意識させることです。時には「耳の痛いこと」を伝えることが、真のパートナーシップに繋がるでしょう。さらに、KPIを多角化することも考えられます。売上成長率だけでなく、その「売上の質」、例えば解約率の低さやキャッシュ創出力などを評価する多角的な視点を持つことが、虚構の成長を見抜く鍵となるかもしれません。

監査法人・証券会社・規制当局にとっての教訓

ゲートキーパーの責任のあり方について、改めて議論を深める必要があるかもしれません。重大な見落としがあった場合の監査法人や主幹事証券に対する責任を明確化し、審査プロセスの実効性を高めていくことが考えられます。同時に、SaaS監査の高度化も求められるでしょう。物理的な実体がないSaaSビジネスの監査には、従来とは異なる高度な手法が不可欠であり、実際の利用ログの検証を義務付けるなど、業界の実態に即した監査基準の見直しが急務と言えます。

実質を見るエコシステムへ

オルツ事件は、資本市場において「物語(ナラティブ)」がいかに魅力的であっても、最終的には「実質(ファンダメンタルズ)」によって裏付けられなければ崩壊するという、厳しい現実を突きつけました。この事件は、日本のスタートアップエコシステムにとって大きな汚点であると同時に、成熟に向けた重要な転換点となり得ます。熱狂に流されず、誠実な企業統治と本質的な事業価値を何よりも重んじる文化へ。物語主導の評価から、実質主導の評価へと移行することこそが、第二のオルツを防ぎ、未来の真のイノベーションを育むための近道なのではないでしょうか。


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Source: News

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