業界を変えた銀行法改正
三井住友フィナンシャルグループは2015年、「IT・ネットビジネス戦略クロス・ファンクショナル・チーム」を発展的に解消して「ITイノベーション推進部」を設立した。責任者は前社長の太田純氏(故人)、その右腕が谷崎勝教氏(現日本総合研究所代表取締役社長)だった。
二人はITイノベーション推進部で銀行のデジタル化について検証を続け、太田氏は2017年に初代のCDIOに就任、デジタルを活用した新規事業創出を一気に加速させるためのCDIOミーティングを開くようになる。
三井住友FGのグループCDIO、デジタルソリューション本部、トランザクション・ビジネス本部担当、デジタル戦略部担当役員、三井住友銀行専務執行役員の磯和啓雄氏は次のように述懐する。
「これはもう劇的でした。僕らが、銀行のデジタル化をちょっと進めただけの状態だったところに、太田さんがトランザクション・ビジネス本部の担当役員になった。このとき、それまで制約があった銀行が5%以上出資し、銀行業務以外の非金融の業務ができる『銀行業高度化等会社』の設立が可能となる銀行法の改正が目前に見えていましたから、『非金融の新しいビジネスをやろうぜ』と初代CDIOの太田さんが言い出して、CDIOミーティングが始まったのです」
CDIOミーティングの陣容は当初、10人ぐらいでスタートした。
「太田さんを筆頭に、谷崎さんやシステム統括部長などが呼ばれていました。リテールマーケティング部とIT戦略部の部長を兼務する僕も第一回目から参加していたのですが、リテール部門はデジタル化の取り組みが先行して始まっていましたので、ほっといても勝手にやっていくと思っていたらしく、法人のデジタル化を太田さんは最初から狙っていました。決済企画部長、ホールセール統括部長みたいな法人がらみの幹部を集め、EB(エレクトロニックバンキングサービス)が使いにくいという話が出れば、『決済商品開発部長を呼べ』といった具合に、太田さんの発案でその都度、担当部の部長などを呼ぶこともありました」(磯和氏)
とにかく太田氏の覚悟は相当なものだった。
「『予算は俺が持つ』といって激を飛ばしていました。月に1回CDIOミーティングをやりましたが、本当に根回しなしの会議でした。『新たにこんなことがやりたい』と提案すると、『おもろい。予算をつけてやる』とその場で即断即決なんですよ」(磯和氏)
このときCDIOが持っている年間開発予算は数百億円に上る。
三井住友FGの開発予算は基本的には、リテール事業部門、法人事業部門、国際事業部門、市場事業部門など各事業部門が持っている。しかし事業部門の予算は5年ROI(費用対効果)、つまり5年で元が取れるような開発でないと、優先的に投資されない仕組みになっている。
ところが、デジタルで新規業務をやるには、5年で元が取れるわけがない。各事業部門に任せたままでは、オリーブみたいな商品は絶対できない。そこで太田氏は「これは新規事業として面白い、今やっておかなければならない」と思ったものについては、5年ROIが達成できなくても予算をつけたのである。
そのような中で生まれたのがeKYC(オンライン本人認証)や生体認証サービスを提供する「ポラリファイ」という会社だ。2017年5月のことである。アイルランドのダブリンにあるDaon(ダオン)の技術を活用し、NTTデータと協力して日本でオンプレミス(自社内でサーバーやデバイスにインストールし、ローカルネットワーク内で運用するシステム)で開発した。
2017年5月の改正銀行法施行で、銀行業高度化等会社が解禁された初日に認可された一号認可案件となり、この生体認証サービスは三井住友FGのさまざまなサービスにおける本人認証で活用され、それを外部にも販売するようになった。
「生体認証の分野では、もう1社ライバルがいます。ポラリファイともう1社の2強です。取り組みが早かったので市場シェアを取ることに成功しました。銀行がこういうビジネスを作って、自分たちのビジネスを入れ、それを外に売るというビジネスのやり方は衝撃的でしたね。太田前社長の先見性やビジネスにおける勘所を掴むすごさを改めて感じました」(磯和氏)
ポラリファイの社長には三井住友FGのITイノベーション推進部部長の和田友宏氏が兼務。ここから三井住友FGがマジョリティーの株式を握って社長を派遣してハンズオンで運営するスタイルが確立された。
UX重視で脱グループ経営
2018年4月にはイノベーション推進部を設立。磯和氏が決済企画部長兼ITイノベーション推進部付部長に就任した。法人の決済を所管する部署だ。このとき磯和氏はBtoBtoCの領域に進出することを模索する。
2018年は小売りや外食業界で顧客を囲い込むアプリの提供が始まっていた。そこで目を付けたのが、それらのアプリの決済機能だった。当時はまだそうしたアプリに決済機能がついていなかった。
三井住友FGのような金融グループにとっては、クレジットカードの加盟店手数料が重要な収益源となっていたからだ。
それでも磯和氏はそこに手を付けることを決断する。そして従来から銀行のキャッシュカードを使ってお店での買い物の支払いや引き出しができるサービス「J-Debit」を活用して完成させたのが、銀行口座から直接支払ができるスマートフォン決済アプリ「Bank Pay」だ。
しかし、こうした取り組みに周囲からは反対の声があがった。それでも磯和氏は「デジタルで生まれた新しいサービスは、既存のサービスを凌駕するのが普通であり、それが当然の成り行きです」と強気の姿勢を見せた。なぜそう考えたのか。
「面白いと思ったからですよ。前任の谷崎さんが『Beyond & Connect(デジタルが持つ、さまざまなものを越えていく力と結び付けていく力)』という標語をつくったのです。とにかくみんな、BeyondしてEntity(会社)を越え、国を越え、グループ会社を越えて繋がろうという強い思いがあったんですよ」(磯和氏)
磯和氏はグループ間の調和よりUX(User Experience)を重視したのである。UXを重視することが将来の三井住友FG全体の大きな成長につながると信じていたからだ。
そしてこのサービスを、ユニクロのレジの効率化を図るためにセルフレジの導入を進める一方で、会員証機能を持った「ユニクロアプリ」の決済機能を求めていたファーストリテイリングに持ち込んだ。利用者にとっては、セルフレジにスマホをかざせば自動的に決済ができるから利便性が高まり、店側は顧客接点を持つことができる。銀行側は加盟店からの手数料収入を得ることができる。
Bank Payに続いて磯和氏が取り組んだのが「ことら送金」のサービスだった。ことら送金とはスマホを使って個人間で簡単に10万円以下の送金を無料でできるサービスで、口座番号を知らなくても相手の携帯電話番号やメールアドレスがあれば送金できる。
「行内ではものすごい反発がありました。SMBCダイレクトで他行に振り込むと、年間数億円の手数料が入る。その利益がいただけなくなってしまうというのが反対の理由でしたが、よくよく調べてみると、三井住友銀行全体の現金管理コストは年間数百億円に上ることが推計されました。キャッシュレス化が進めば、現金の輸送コストや警備会社に支払う費用なども削減できるので、年間数億円の手数料収入分はすぐにペイできると思いました。そして何より利用者の利便性も高まります」(磯和氏)
オリーブは三井住友カードの大西社長が主導
磯和氏が三井住友銀行のBank Payやことら送金の開発を進めているころ、水面下ではもう一つ大きなプロジェクトが進行していた。
そのキーパーソンとなるのが磯和氏の元上司で、三井住友FGで執行役専務としてリテール部門を統括してきた大西幸彦氏だ。
大西氏は2018年6月に三井住友カードの社長に就任し、キャッシュレス化の進展を見据えて、銀行とカード事業を一体化したデジタル取引の拡大を推し進めようとしていた。磯和氏は語る。
「大西さんは、僕がリテールマーケティング部長をしていたときのリテール部門の担当役員でしたが、その後、僕はトランザクションバンキング本部長として法人決済の商品・営業企画に異動し、大西さんは三井住友カードの社長になったわけです。そのときオリーブの原型となるさまざまなアプリの開発に携わっていた人たちを豊洲の本社に全部移して、そこで開発を続けさせました。そして大西さんは、銀行、デビットカード、クレジットカードを一つにまとめ、それに証券や保険などを繋げようと動き出したんです」(磯和氏)
大西氏もまた、UXに重点を置いてグループを超えたグループ経営を進めようとしていた。
「オリーブのアカウントがこれだけ短期間で300万件越えをしたのは、ユーザビリティ(usability、使いやすさ)重視が貫かれているからだと分析しています。証券や保険に繋ぐといっても普通はグループ内の親密会社が一番に思い浮かぶ。証券ならSMBC日興証券、生命保険ならグループではありませんが住友生命などです。ところが大西さんは、ユーザビリティを重要視して証券は口座数トップのネット証券であるSBI証券と、保険はネット取引で業界トップクラスのライフネット生命と組んだわけです」(磯和氏)
こうした大西氏の取り組みを資金面で支えていたのが三井住友FGのCDIOだった。初代の太田氏に続き、2018年4月からは谷崎氏が務め、2023年4月からは磯和氏が務めている。
「オリーブの開発資金は、CDIO予算をつけ続けました。オリーブの開発を本格的に進めてから5年間は売上が立たないですから、リテール部門の予算を使うには、どうしても開発が劣後します。こうした仕組みを改善したのがCDIO時代の太田さんで、社長に就任以降、これが広がっていって、それが繋がっていったって感じですよね」(磯和氏)
今後、三井住友FGはグループのネットワークを最大限に生かす形で新規事業の開発展開を積極的に進めていくという。
「新規事業というのは、SMBCクラウドサインにしても今まではゼロから1にして世に出してきました。これを1から10ぐらいにできるようになりましたが、さらに10から100へとスケールアップするところに今後の大きな意味があると思います。例えば、僕が担当しているデジタル子会社が今8社、売り上げで合計すると70億円から80億円ぐらいあります」(同)
ちなみに8社とは①資金決済の周辺業務の効率化を行うBPORTUS(共同出資先、NEC)②組織力向上プラットフォームのSMBC Wevox(同、アトラエ)③クラウド型電子契約サービスのSMBCクラウドサイン(同、弁護士ドットコム)④eKYC(オンライン本人認証)や生体認証サービスを提供するポラリファイ(同、Daon、NTTデータ)⑤RPAの導入支援を手掛けるSMBCバリュークリエイション(100%子会社)⑥金融ビッグデータを活用した広告・マーケティングのSMBCデジタルマーケティング(同、電通)⑦法人向けSaaSプラットフォームのプラリタウン(100%子会社)⑧医療系アプリ事業のプラスメディ(出資比率非公開)となる。いずれも三井住友FGがマジョリティーの株式を保有してハンズオン経営を進め、①から⑦は、銀行から直接社長を派遣している。
新サービスの展開では三井住友FGの営業ネットワークをフルに活用する。
三井住友FG傘下の三井住友銀行には、全国に約170の法人顧客向けの営業拠点があり、年商で30億円から1000億円の企業3万社から5万社と取引している。
「法人営業部では一人あたり30社から50社を担当しているので、国内の中小企業のメッシュが細かく、解像度が高い。われわれが作った商品を、同じ銀行員が紹介し、ときには契約までするわけですから、一気に広げることができます。たとえばSMBCクラウドサインは1年で2000契約を獲得しましたが、5万社のうち、10社に1社ニーズがあるとすると、5000契約くらいまでは伸ばしていくことができると考えています」(同)
さらにノウハウはポラリファイの立ち上げから7年間の間に蓄積されている。またSMBC Wevoxは設立10カ月で単月黒字化を実現した。
しかし課題も山積している。
「4兆円近い連結粗利益を上げる三井住友FGの中ではこうしたスタートアップ企業はまだまだ小さい。これをさらに100億円にスケールアップするには、違うやり方をしないといけない。それが今、非常に悩ましいところです。それは悪いことではなく、銀行は非常に効率的に収益を上げるマチュア(成熟している)なビジネスがいっぱいあるということです」(磯和氏)
スタートアップの事業は、収益を上げるために時間がかかる。ところが大手の銀行にはわざわざ新規ビジネスを創設しなくても、今儲かる商売はたくさんある。人もアセットもあるなら、既存の事業部は稼ぐ方に経営資源を集中したい、と考えるのは当然のことだ。
「こうしたマチュアな業務があまりにも強大なだけに、そこにスタートアップのような小さな魚をいきなり入れてしまうと死んじゃうんですよ。それをどれぐらいまで育てていけば、みんなが一生懸命やってくれるのか、というのを、今手探りでやっているところです」(磯和氏)
ITやDXに詳しい米調査会社、ガートナーのリサーチ&アドバイザリ部門バイスプレジデントアナリストを務める鈴木雅喜氏は、この事例について次のように述べている。
「デジタル・テクノロジーで既存ビジネスの変革を起こす、あるいは新たなビジネスを生み出す場合に必須となる点が三つあります。それは『経営の理解と判断』『リスクを厭わない投資』『人材』です。今回の事例では、経営層自らが危機感を強く感じ、『即断即決』アジャイルでリスクを厭わない投資を進めたこと、外部の人材を広く集めベンダー側の投資も引き込んだことが成功の背景にあると思われます。
この事例を目にし、我が社にこれは無理だ、と感じる読者がいるかもしれません。しかし、諦めないほうがよいです。まず、これら必須の3点のうち何が欠けているか把握し、次に、どうやったらそろえることができるか、そのために何をするか、誰を巻き込んでいくべきかを検討し、行動に移していくべきです。今回の事例のように経営層自らが強力なイノベーターでなくても、現場側のイノベーターを経営層が信頼し、リスクを厭わない投資を進めるケースもあります。また、外部の人材に頼らざるを得ない場面は出てくるとしても、社内人材の掘り起こしを進め成功するケースもあります。壁に当たって諦めるのではなく、そこに小さくても良いので穴を空ける方法を考え、周りの人材も巻き込んで突破する。これを繰り返していくことが成功への秘訣です」
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